政治の役割は人々を幸福にすることである。しかしその『幸福』の中味は人により時代によりたしかに異なる。これまで政治行政がモノサシとしてきた幸福はGDPを代表とする経済指数であったことは免れない。
議員時代は毎日予算書をながめ、この数字を増やし減らすためにどうするか悩む一方で、そうした作業が本当に住民の幸せに直結するのかという根本的な疑問もあった。若い頃放浪したアジアや欧州での、人々の慎ましくも穏やかな暮らしが印象に残っているせいもあるかも知れない。
西武線に乗っていて車内広告を眺めて思った。
消費者金融の広告と、借金問題解決のための弁護士事務所の広告が並んでいた。
サラ金も弁護士費用も、それに社内広告も経済行為なので、一連のお金は国のGDPにカウントされるはずだ。サラ金も弁護士も、喜んで付き合いたい人はいないと思うのだが、国の富は一般的にGDPで測られるから、借金問題も日本のGDPを押し上げる要因になる。しかしながら、こうして押し上げられた豊かさは、私たちの幸せと直結しているとは到底思えない。
アメリカという国は国家による福祉行政システムより市民セクターによる支えあいが機能している社会である。伝統的に行政に依存しない国民性と、市民セクターを支援する寄付の文化があるからである。アメリカのほうが日本よりはるかに格差の大きな社会だと思うが、それでも人々が生きていかれるのは行政ではなく住民の間で支えあいのシステムがあるからである。
ボランティア活動や市民活動の多くは、利潤を生まないし、お金が動かないことが多いからGDPにカウントされない。しかし善意の支え合いは確実に人々の幸せにつながっている。
GDPに対して、GNH(Gross National Happiness)という概念があることを知った。国民総幸福量とでも訳すのだろうか。人々の幸せはGDPで測るのではなく一人ひとりの国民の幸せの総和であるという。これを唱えたのがブータンの国王だと言うので妙な説得力がある。
清瀬市の場合は、とにかくお金がないことが最大の問題なので、行政がすべての施策の実施主体になることには限界がある。生活保護のように最低限の生活保障のためにはお金が必要だが、子育てにしても高齢者の見守りサービスにしても、予算をつけるよりも地域の人がかかわっていく仕組みのほうが望ましい。さまざまな分野でのボランティア活動・市民活動など(この市民活動は行政に対する反対運動などの“市民運動”とは別物である)が人々の幸せの向上に寄与している。
こう考えて、私は議会では “総合的なボランティアセンター”を提案し、これが発展し市民活動センターができた。この街も徐々にではあるが確実に住民自らの支えあいのシステムができつつある。
「趣味や関心に基づいた市民活動と、住んでいる愛着ある地域でのコミュニティ活動の二種類の活動の場を用意すること」を私は提言してきた。この考えを日本社会事業大学の大橋先生に語ったところ、これは昔から大橋先生が提唱していたことで、アソシエーション型のNPOとコミュニティが、横糸と縦糸の関係で地域福祉を進めていくべきだと教えていただいた。どちらもGDPにはカウントされないが、GNHを推し進める要素である。
行政も議会も、福祉予算を確保できたことでホッとしてしまうことがあるが、広い視点で考えて、何が幸せなのか、何が政治の目的なのかをつねに自問していかなければならない。